日本にゴルフが伝わってから100有余年。ゴルフ黎明期の先人から、現役プレーヤーの取り組み、意外と知らないゴルフ場やゴルフギアにまつわるエピソードなど、日本にゴルフの“トビラ”を開いてきた偉人たちや、その偉業の一端を紹介していきます。

日本にゴルフが伝わってから100有余年。ゴルフ黎明期の先人から、現役プレーヤーの取り組み、意外と知らないゴルフ場やゴルフギアにまつわるエピソードなど、日本にゴルフの“トビラ”を開いてきた偉人たちや、その偉業の一端を紹介していきます。

日本のプロゴルファー第1号

福井覚治

キャディから、プロ、指導者まで。
新スポーツを、人を育んだ歩み

2016年、リオデジャネイロ大会でゴルフ競技は、オリンピックに復活した。同年のパナソニックオープン優勝者・池田勇太と片山晋呉のプロゴルファー2人が日の丸のユニフォームに身を包み奮闘。2020年の東京大会では地の利を生かしての活躍が期待されている。 2020年のちょうど100年前、日本にプロゴルファー第1号が誕生している。

福井覚治。1920年(大正9年)10月、日本で8番目のゴルフコースとなる舞子カンツリー倶楽部が神戸市に開設されたが、その時にキャディマスター兼プロとして採用されたのが彼である。 福井が12歳の時、神戸市の横屋(現在の神戸市東灘区)にあった生家に隣接してゴルフコースが開設された。神戸ゴルフ倶楽部に次いで、日本で2番目のゴルフコース、横屋ゴルフ・アソシエーションである。わずか6ホールのショートコースではあったが、神戸や大阪など関西在住の外国人がひっきりなしに訪れるようになり、人気を呼んだ。隣にあった福井の生家は、たちまちクラブハウスに。もともとコース造成のときから支援に積極的だった彼の父をはじめ、家族は総出で外国人ゴルファーの世話を焼いたという。

横屋のコース設立に人一倍力を注いでいたのが、英国人貿易商のウィリアム・ジョン・ロビンソンだった。無類のゴルフ好きという彼は最初の六甲山頂コースの設立にも関わっていたが、同コースが冬場は寒さゆえに閉ざされてしまうのが我慢ならなかったらしい。そこで1年中利用できるコースとして横屋を造ったのだ。そしてゴルフ好きの彼が専属キャディとしたのが、12歳の福井覚治少年だった。最初は、ゴルフ好きの外国人の後をクラブバッグを担いで追いかけるだけだったかもしれない。しかし、ロビンソンは英国人の気質なのか、はたまたゴルフ好きゆえからなのか、自分専属の少年キャディにプレイやクラブ、コースなど、ゴルフのことを熱心に教え込んだという。覚治自身にも才能があったのだろう。成人を迎える頃には、横屋コースのキャディマスターに成長。ロビンソンは後年になって、土地問題から横屋コースが閉ざされると、新たに開設したゴルフコースに彼を呼び寄せている。

舞子カンツリー倶楽部が設立されてプロとなった彼は、1926年(大正15年)の関西オープン優勝などプレーヤーとして活躍するが、一方で後進の指導にも熱心に取り組んだ。当時は大変な貴重品でもあったゴルフクラブの修理や開発も手掛け、また、練習場の確保にも尽力したという。 12歳の少年の大いなる出会いと体験が、日本のゴルフ黎明期を切り拓いていった。

(敬称略)

コンテンツ協力:一般財団法人日本プロゴルフ殿堂

●写真上/1926年の第1回関西オープンに優勝した福井覚治。
●写真下/スイング姿の福井。ハンチング帽にニッカボッカ姿が、往時のプレイを偲ばせる。