1927年(昭和2年)

角型ランプを考案、発売

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初めてナショナルの商標をつけた「角型ランプ」のホーロー製看板

初めて「ナショナル」の商標を使う

砲弾型ランプは「エキセル」の商標で山本商店に販売を3年間一任し、わが社は生産に専念することにしていたが、そのうちに両者の意見が衝突するようになった。山本商店の店主・山本武信氏は「このランプは一時的な流行品だから契約期間内に売り切ればよい」と考えていた。一方、所主は「永続的な実用品だから販売についても工夫し、販売量を増やしてはどうか」と提案した。両者の意見は一致しなかった。

当時、所主は角型の電池式ランプの考案に熱中し、試作を続けていた。そしてこのランプは自分なりの方針で売ってみたいと思い交渉したが、了解を得られなかった。山本氏は契約を盾に、「どうしても販売するなら代償として1万円を支払え」と要求してきた。所主は思い切ってこの申し出を受け入れることにし、1926年10月、1万円を支払い、角型ランプの販売権を買い戻した。

山本氏とはこの他にも意見の対立することが多かったが、公明正大な態度、強い信念など、何かと教えられることが多かった。

所主は角型ランプの名称についても考えていた。ある日、新聞で「インターナショナル」という文字が目につき、辞書を引くと「国際的な」とあった。「ナショナル」には「国民の」との意味があった。思いにぴったりの字義である。所主は「『ナショナル』の商標をつけ、国民の必需品にしよう」と決心した。

1927年4月、角型ランプは完成した。発売に際して、販売店に1万個の見本品を無料提供する積極売り出しを実施した。

「ナショナルランプ」の販売は大成功を収め、1年もしないうちに月3万個を出荷するまでになった。

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所主が3日3晩考えて文案を練り、デザインした初めての新聞広告

スーパーアイロンを発売

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フォードの大量生産方式をヒントに低価格を実現したスーパーアイロン

電化製品を一般の人々の手に

1927年には電熱器分野へ進出した。当時、電熱器はラジオとともに文化生活の先端をいく製品であったが、一般家庭にとっては値段が高く、手の届きにくい商品だった。

所主はかねてから、一般の家庭でも買いやすい価格の、しかも品質がよい電熱器を作りたいと考えていた。同年1月、電熱部を設置し、ちょうど入所してきた中尾哲二郎に、最初の電熱製品としてアイロンの開発を命じた。開発に当たっては、従来のものより品質的に劣らず、しかも3割は安い価格のものを作るように要求した。

3ヵ月後、ヒーターを鉄板に挟んだ新機軸のアイロンが完成した。当時の小学校教員の初任給が50円程度であったのに対し、アイロンは4~5円で売られていた。そこで所主はこの新製品を月1万台生産し、3円20銭で発売するよう指示した。量産すればより多くの人々の手に入る価格で販売できると考えたのである。しかしその数量はそれまで業界全体で販売されていた数量である。それを1社で生産販売しようというのである。はたして市場にそれだけの需要があるかどうかが問題だった。だが所主は、手頃な値段で品質のよいものであれば、一般の人々に喜んで受け入れられるとの信念があった。予想は当たり、このアイロンは好調な売れ行きを示した。技術的にも評価され、後に商工省より国産優良品に指定された。

続いて、同じ方針で電気コタツの開発に取り組み、新開発のサーモスタットを使用した電気コタツを開発した。これも従来のものの半値程度で発売したので好評を博した。

同年11月に研究部が設置されたが、中尾哲二郎はこれ以後、技術の総帥として、戦前戦後を通じて数々の新技術・新製品の創出に携った。1981年9月、79歳で逝去。

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日本で最初の自動温度調節器付き「電気コタツ」のポスター

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中尾哲二郎最高技術顧問
(1975年11月撮影)

社内外向け機関誌を創刊

衆知を集めた全員経営

関東大震災の復興もままならない1927年3月に金融恐慌が発生、資金難で倒産する企業が続出した。こうした混乱のなかで所主は、販売店や従業員との精神的なつながりを重視し、機関誌を発行することにした。

まず同年11月、販売店向け機関誌として「松下電器月報」を創刊した。所主は創刊号の中で「弊所はどんな営業ぶりであるか等をよく理解していただくと同時に、こんなふうにやれとか、こう改良しろとか、つまり皆様のご希望や要求を聞かせていただきたい」と述べている。この月報発刊の思想は、その後「松下電器連盟店経営資料」、戦後の「ナショナルショップ」誌へと引き継がれていく。

同年12月には従業員の相互理解を図るため「歩一会々誌」を創刊した。さらに1934年に「業容の推移、政策、方針などは、我々の最も大なる関心事であり、それを明確に知ることは企業人にとっては安心立命の源である」として「松下電器所内時報」を創刊した。戦後になりその意図は「松下電器時報」、「松風」に引き継がれる。

創業して間もない個人企業の会社が、早くもこの時期に社内外向けのコミュニケーション誌を発刊していたのである。

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「松下電器月報」創刊号

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「松下電器月報」と「歩一会々誌」の表紙および内容の一部