1945年(昭和20年)

民需生産の再開を決意

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一面の廃墟と化した大阪市内。(松下電器真空工業所・戎橋工場の屋上から)

終戦の翌日に緊急経営方針発表

1945年8月15日、太平洋戦争は日本の無条件降伏で幕を閉じた。この戦争で日本は300 万の人命と、国土の半分、国家資産の4分の1を失った。空襲で都市は形を失うまでに破壊され、産業は壊滅的な打撃を受けた。

わが社も、大阪、東京地区を中心に、32ヵ所の工場、出張所などが被災した。また終戦とともに海外の工場や営業拠点はいずれも相手国に接収された。しかし、幸い本社と主力の工場は残った。

終戦の翌日、社主は幹部社員を本社講堂に集め、直ちに民需産業に復帰するとの方針を明示した。続いて8月20日には「全従業員に告ぐ」との通達を出し、「生産こそ復興の基盤である。わが社の伝統精神を振起し、国家再建と文化宣揚に尽くそう」と訴えた。

虚脱感の中で茫然自失の観があった従業員は社主のこの気迫に不安、動揺を静められ、生産準備に取りかかった。

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強い決意で戦後の復興にあたる松下社主

徴用工や挺身隊、学徒などは戦後、動員を解除されて会社を去り、この転換期に退職する社員も出て、戦時中の最高時には26,000人にも達した社員が、年末には15,000人までに減っていた。

持株会社の指定を受けて、分離独立を余儀なくされた子会社が32社あった。それらの子会社はそれまでに制限会社の指定で資産を凍結され、軍需補償の打ち切りで多額の代金を棚上げされ、また数社は賠償工場の指定を受けたうえで分離され、苦難の中で独立の道を歩まなければならなかった。松下造船では木材加工の経験を生かして、大八車や簡易住宅の生産を始めたが、未経験な仕事で成果は上がらなかった。

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手持ちの木材で生産した松下造船の大八車

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手持ちの木材で生産した松下造船の簡易住宅