「松下電器製作所」が昭和4年の売れゆき不振を半日操業で脱したあとも、日本中を不況がおおっていた。産業界では閉鎖縮小が常識で、多くの企業が倒産。電機業界も例外ではなく、姿を消す大手メーカーがいくつもあったが、工夫をこらした製品を手に、積極的に展開を続ける幸之助の事業は逆風に負けず成長し続けた。昭和4年、採用を控える企業が続出するなか、学卒者の採用を開始。昭和6年正月には、初めて初荷を挙行し、静まりかえった世間に威勢のいい声がこだました。

昭和6年末、配線器具、電熱、ラジオ、ランプ乾電池の4部門に200余りの製品をもち、本店、各支店、出張所および8つの工場で働く従業員数は1000人に達する企業のトップとして幸之助は忙しい日々を送っていた。そんなある日、幸之助は取引先の某氏の勧めで、とある宗教団体の本部に参詣する機会を得た。