6-1. 舞台を世界へ

昭和25年、戦後の疲弊した日本経済に変化が起こった。世界的な景気回復の波に加え、6月に朝鮮戦争がぼっ発。参戦したアメリカが、軍需品の調達を日本に求めたのである。世に言う「特需」が日本経済界を刺激した。

民需生産で再建に取り組んでいた松下電器にとって、特需そのものよりも、人々の暮らしに余裕が生まれてきたことが喜ばしかった。数年来の苦難の時代を乗り越え、わずか半年のうちに松下電器は経営収支を大幅に改善。事業は軌道に乗り始めた。

恒例の経営方針発表会を迎えた昭和26年正月、幸之助は事業の回復ぶりに深い感慨を覚えていた。しかし、その心はさらに前を、広く世界を見つめていた。これまでの経営をいったん白紙にして世界的視野で事業を再構築したい。幸之助はその必要を痛感していた。壇上で幸之助は今日の回復に甘んじる事なく「松下電器は、今日から再び開業する」という心構えで経営に当たることを宣言。初のアメリカ視察を発表した。旅行も英語も不得手な社長のこの発表に社員たちは一様に驚いた。このとき、幸之助は56歳。