このコーナーでは、松下幸之助歴史館についてより深く理解していただくために、展示に関連するエピソードや、より詳しい情報を写真を交えて紹介しています。
ご来館の参考にしていただければ幸いです。

※このページの内容は当時のものです。会社名や製品名等、最新の情報と異なる場合がありますのでご了承ください。

第一話 幸之助「歴史館」を語る

「うちの歴史館をご覧になりましたか?あれは創業50周年を記念して作ったものです。建物は創業の地、大開町から門真へ移転した昭和8年の本店社屋をそっくり復元・再現しています。設計はぼくがあれこれ注文をつけました。なかなかしゃれてるでしょう?あの建物が建った時、南欧風の瀟洒な建物とずい分人気を呼んだものです」
幸之助は、自らの著書「松下幸之助 道は明日に」で、歴史館についてこう語っています。

1968年(昭和43年)3月7日、創業50周年記念事業の一環として、「歴史館」が開館。建物は昭和8年、本拠が大開から門真に移転した当時の本店社屋を、そのままの姿で再現され、わが社の歴史を知り、伝統精神を学び、明日に思いを馳せることのできる場所として多くの人々に親しまれてきました。

創業65周年に補充改装し、その展示を見た幸之助は、「会社の歴史とはいうものの、私の半世紀の歩みにもなっている。しかし、会社は私一人の力で歩めるものではなく、社内外の人びとの支えと恩顧が積み上げられてきたものである。私の眼には歴史館の一コマ一コマのかげから、その時々のあの人この人の面影がほうふつとし、若い従業員たちの元気なざわめきが聞こえてくるような気がして、思わず胸が熱くなる。歴史館は私にとっては"温故知新"なのである」とある雑誌の取材で語っています。

歴史館では、松下幸之助の経営哲学とともに、歴史的な商品など、歴史そのものを味わうことができ、社内外から多くの方々が来館されています。

幸之助の写真

1983年3月

幸之助の写真

1975年12月

第二話 屋上の舵輪

歴史館の建物をご覧いただくと、屋上に舵輪が見えます。これは、1933年(昭和8年)、大開から門真に本店を移転した際、当時の本店社屋に取り付けられたものです。

本店建設中、「神戸に解体船がある」と聞いた幸之助は、自ら見物に行き「良い物を買って来た」とニコニコ顔で帰って来ました。その時に買って来たのが、大きな舵輪と船の食堂のテーブルと椅子です。テーブルと椅子は新しい本店の食堂に置かれ、舵輪は「会社を船に例えると、ここがちょうど指令室にあたる。この本店が会社全体の舵を取っていくのだ」との考えから、本店社屋に取り付けられました。当時からクラシックな感じが評判を呼んだそうです。

歴史館屋上の舵輪の写真

歴史館屋上の舵輪

幸之助の写真

門真本店にて(前列左から2番目が幸之助)

第三話 松下幸之助翁寿像

歴史館の前庭に、幸之助の全身立像があります。
この立像は、労働組合の結成40周年を記念して、幸之助の「物をつくる前に人をつくる」を信念とした従業員の福祉労働条件の向上と、「対立と調和」の精神に基づく健全な労使関係の発展に尽くした功績に感謝し、労働組合より贈られました。歴史の中で守り育まれてきた健全な労使関係を、将来へ継続発展させるという決意が込められています。

1986年(昭和61年)11月27日、幸之助の満92歳の誕生日の日に、「松下幸之助翁寿像建立贈呈式」が歴史館構内で行われました。幸之助本人も出席、労働組合各支部長ら約150名が見守る中、会社代表の松下正治会長(当時)と約8万人の組合員を代表する前川中央執行委員長(当時)の手により、寿像の除幕が行われました。建立された像は、高さ3.5メートル、重さ320キログラムという銅製の全身立像で、構内に永久的に設置されることになっています。

この立像を見た幸之助は、「感謝の気持ちでいっぱいです。銅像は今の私よりもやや若いですが、これも年齢にとらわれることなく、心の若さを保ってがんばりなさいとの温かい励ましだと思っています。昭和21年1月に松下電器労働組合の結成大会で祝辞を申し上げたことを思い出します。わが社が今日あるのも、組合の協力あってのことで誇りに思っています」と語っています。

松下幸之助寿像の写真

歴史館構内の松下幸之助寿像

幸之助の写真

1986年11月 松下幸之助翁寿像除幕式で組合員代表の
女性社員と

第四話 「創業の地」大開

歴史館には、パナソニックの創業当時の作業場を復元した「創業の家」が実物大で展示されています。
この「創業の家」の中には、アタッチメントプラグなどを作るのに使用していた、当時の釜や足踏み機、型押機などの実物が展示されています。また、館内の中庭には、鬼瓦や石灯篭があります。これは、大開に建設した第二次本店に飾られていた実物で、瓦は本店の建造物に、石灯篭は中庭にそれぞれ置かれていました。

1918年(大正7年)3月7日、満23歳の幸之助は、大阪市北区西野田大開町(現在の大阪市福島区大開)に「松下電気器具製作所」を創立しました。そして、最初の製品である「アタッチメントプラグ」や「二股ソケット(二灯用クラスター)」などを生み出し、1933年(昭和8年)7月に門真に移転するまでの15年間をこの大開で過ごしました。

この意義ある大開に、幸之助の生誕110年にあたる、2004年(平成16年)11月27日、第二次本店・工場のあった現在の大開公園の一角に、「松下幸之助創業の地」と記された記念碑が建立されました。この記念碑の建立は、大開に「創業の地」の足跡を示すものがない状況を憂慮した大開連合町会が、町おこしの一環として起案されたものでした。同会が2003年(平成15年)に立ち上げた、「大開町と松下幸之助に関する事業委員会」の募金の呼びかけに、地元有志の方々や当社社員・OBら約9300人が応じ、記念碑の建立に至りました。

記念碑の大きさは高さ1.8メートル、幅2メートルで、幸之助直筆の「道」の文字が刻まれています。大開にはこの記念碑のほか、創業の家、第一次本店・工場、第二工場(ランプ組立工場)の跡地にも、それぞれ銘板が取り付けられています。

記念碑の写真

幸之助直筆の「道」と刻んだ記念碑

「松下幸之助 創業の地」記念碑建立式典の写真

2004年11月 「松下幸之助 創業の地」記念碑建立式典

第五話 タイム・カプセル

歴史館の中庭に、1970年(昭和45年)日本万国博覧会に出展したタイム・カプセルの本体が展示されています。また、館内の展示コーナーでは、「『EXPO'70』とタイム・カプセル」について、映像や資料で紹介されています。

タイム・カプセルは、1970年に開催された日本万国博覧会を記念し、パナソニックと毎日新聞社が「現代の文化を5000年の未来に伝えよう」との思いから、製作されました。1970年時点の文化を5000年後の人類に残そうと、2098点に厳選した物品や記録文書がカプセルに収納されています。大阪城公園天守閣前のレリーフの下に、100年ごとに開封される1基が地下10メートルの場所に、5000年ごとに開封される1基が地下15メートルの場所に埋設されています。

2000年(平成12年)3月15日、このタイム・カプセルが30年ぶりに開封されました。開封されたカプセルは、点検を目的に2000年から100年ごとに開封される地下10メートルに埋設されたもの。カプセルの収納物2098点のうち173点が点検されました。その結果、細菌の一部は死滅していましたが、炊飯器やテレビなどは正常に作動、植物の種子が実験で発芽するなど、ほとんどのものが封入時の性能・状態を維持していました。そして、点検作業を終え、同年11月23日に再び埋設されました。

2003年(平成15年)3月15日には、開封時に取り出した植物の種子から発芽したアカマツの幼木3本が、「タイム・カプセルの木」として会場跡地である万国博記念公園に植樹されました。万国博跡地に移植公開し、広く一般の人々に生命の大切さを訴えるとともに、万国博の記憶を語り継ぐ生きた証人として、アカマツの成長とともにタイム・カプセルの夢が生き続け、大きく膨らんでいくことを心より願ったものです。
植樹した3本の幼木にはそれぞれ「生命の芽吹き・育み」「地球への願い」「夢・そして未来へ」という想いが込められています。

このアカマツの幼木は、2005年(平成17年)3月14日、歴史館構内にも植樹されました。

タイム・カプセル埋設の写真

1971年1月 埋設されるタイム・カプセル

タイム・カプセルの本体の写真

歴史館中庭にあるタイム・カプセルの本体

第六話 歴史館館内映像「道~松下幸之助の歩み~」

歴史館のエントランスを抜けて、長屋門をくぐると、時系列展示ゾーン「第1期 志を立てる」があります。その展示の一つに、幸之助の誕生から創業までを紹介する映像があります。

この映像に使われている絵画は、1978年(昭和53年)11月27日に開催された「相談役様に感謝する会」で、従業員から記念品として幸之助に贈呈された「画伝 松下幸之助 道」の一部です。

「画伝 松下幸之助 道」は、元社員の澤田重隆画伯の制作で、幸之助の歩みを162点の画で綴っています。この画伝を贈呈された時、幸之助は、「私の歩みが画で1枚1枚に丹念に描かれており、手にとりますと、その当時のことが生き生きと思い出され、非常な感動を覚えました」と語っています。

1979年(昭和54年)5月には、この原画を写真複製し、歴史館と当時の中央社員研修所に特別展示したところ、非常に好評だったため、書籍として刊行し、1981年(昭和56年)5月5日の「創業命知第50周年記念式典」で、従業員、関連会社、お得意先などに贈呈されました。

その後、1994年(平成6年)「創業者生誕100年記念行事」の一環として、新たに幸之助逝去までの画を追加し、ハイビジョンソフト「道~松下幸之助の歩み~」が制作されました。歴史館で放映されているのは、その映像の一部です。

歴史館館内の写真

歴史館館内の時系列展示ゾーン
「第1期 志を立てる」

「相談役様に感謝する会」での幸之助夫妻の写真

1978年11月 「相談役様に感謝する会」
での幸之助夫妻

第七話 「M矢」の商標

初めて商標がつくられたのは、創業から2年ほど経った、1920年(大正9年)2月です。

その下地となったのは、幸之助が石清水八幡宮(京都府八幡市)を参詣した時にもらった破魔矢でした。幸之助は破魔矢を見ているうちに、「この矢と松下の頭文字Mを組み合わせたらどうだろう」と思いついたのです。

こうして完成したのが、初めての商標「M矢のマーク」でした。これには「立ちはだかるどんな障害をも突破し、目標に向かって、前へ、前へとまっしぐらに突き進む会社でありたい」という強い願いが込められていました。

製品に刻まれ、カタログや広告を飾った「M矢のマーク」は、1943年(昭和18年)まで、社章にも用いられました。

歴史館には、この「M矢のマーク」が刻まれた製品が、数多く展示されています。

1920年(大正9)の商標

1920年の商標

1935年(昭和10)頃の社員制服帽章の写真

1935年頃の社員制服帽章

第八話 松下幸之助塾主銅像

1978年(昭和53年)9月12日、21世紀に理想の日本を実現しうる為政者をはじめ各界の指導者を育成するために、幸之助自らが理事長兼塾長となり、私財70億円を投じて「松下政経塾」を設立することを発表しました。

1980年(昭和55年)4月1日、第一期生入塾式が行われ、その中で幸之助は、次のように要望しました。
「この塾は塾生が自問自答し、自分を磨くところで、少なくとも3年いれば、政治、経済について相当の学識を行使できるような実力を養っていただけるということです。これからはそれを実地に行使していくことを考えなくてはならないでしょう。そのためには、確固たる信念がなくてはいけません。そのように専門知識を実地に行使していくために必要な、確固たる信念を養ってもらうことが、この塾において皆さんに課せられた大きな仕事になるわけです。そして、3年もたてば、一応のしあげはできるでしょう。そうすれば、あとの2年は街頭に出て辻説法をするとか、いろいろ社会の中で将来の準備をしていく。そして、5年間で、すべての点にわたって見識を養っていくわけです。たとえば、かりに卒塾してすぐに文部大臣なら文部大臣をやれと言われても、それをやれるというくらいの見識を養わなくてはいけないと思います」

1989年(平成元年)7月23日、同年4月に死去した幸之助を偲ぶとともに、塾設立10周年の節目として、「弟子たちの集い」が行われ、その中で、幸之助の銅像の除幕式が行われました。この銅像は、彫刻家・平櫛田中氏監修、弟子の浜田泰三氏によって制作された、高さ2.4メートル、300キログラムのブロンズ像です。
これの三分の一の大きさの銅像が、歴史館と松下資料館に展示されています。

松下政経塾の写真

1979年 神奈川県茅ヶ崎市に設立された
松下政経塾

塾生と歓談する幸之助の写真

1982年 塾生と歓談する幸之助

第九話 幸之助と自転車

幼少時代に五代自転車店で奉公していた幸之助。「輪界に育ち、輪界に育てられた」と言うほど、砲弾型ランプをはじめ、自転車への思い入れは強く、わが社が初期に発売した自転車は自らが試乗し、性能を確かめるほどでした。

五代自転車店へ奉公していたある日のこと。開業の記念日に全員で写真を撮ることになり、幸之助は写真を撮るのを非常に楽しみにしていました。ところが、用事を言いつかり、帰ってきた幸之助は、その時間に間に合わず、悲しくて泣き出してしまいました。かわいそうに思った夫人は、幸之助を写真屋まで連れて行き、一緒に写真を撮ってくれました。
歴史館には、この時に撮った写真が展示されています。

また、当時は自転車レースが非常に盛んで、五代自転車店でも競技用自転車を発売していたことから、選手が出入りしていました。幸之助も「選手になりたい」と競争会に出場し、一着になったこともありましたが、一度競争会で転倒してからは、練習も出場もやめてしまいました。

五代自転車店での奉公では、挨拶の仕方や頭の下げ方など、商売の仕方を厳しくしつけられ、それが、「その後の人生に役立った」と幸之助は語っています。

歴史館には、砲弾型ランプをつけた自転車も展示しています。

奉公していた幸之助と店主夫人の写真

1905年 五代自転車店に奉公していた
幸之助。店主夫人と

自転車に試乗する幸之助の写真

1965年 自転車に試乗する幸之助

第十話 松下幸之助と中川工務店

歴史館の所主室には、上棟板が展示されています。これは、1933年(昭和8年)の門真本店新築の際、その棟に納められていたもので、1967年(昭和42年)末、この建物解体に際し、発見されたものです。

1920年(大正9年)、幸之助が新しく工場を建てようと土地を探していた時、偶然にも同じ地主の土地を買い、隣に住んでいたのが、この上棟板にある中川工務店の社長でした。
これがきっかけとなり、大開町の第一次本店・工場から門真移転までの本店・工場は、すべて中川工務店が建設していました。

ある日、この社長が幸之助に「どんなものが今一番よく売れますか」と聞いたところ、幸之助は「ランプがよく売れている。今、その木型を試作しているので、家に来て木型をつくってもらえないか」と頼み、砲弾型ランプの木型をつくってもらったこともありました。

1922年(大正11年)、どんなに仕事場を工夫しても注文に応じきれず、工場の増設に踏み切らなければならない状態になったため、大開町1丁目に「第一次本店・工場」を建てることになりました。工場建設にあたり、自ら間取りの設計をし、立体図を見た幸之助は「今住んでいるところから見ると雲泥の差で、今までと違った生きがいを感じた」と語っています。また、建築中は、「毎日仕事の合間に現場を見にいくほど、非常に楽しみにしていた」そうです。

上棟板の写真

歴史館の所主室にある上棟板

第一次本店・工場のイメージ

1922年 第一次本店・工場