「おお、ここやここや。ごめん!おお松下君やな」
「へえ?」
「わしは、この間ソケット見せてもろた、阿部電気商会(あべでんきしょうかい)の者や。捜(さが)したで」
「ソケット、買うてくれはるんでっか!」
「いやいや、実はソケットやのうて、ガイバンや」
「ガイバン?」

意気は衰(おとろ)えないものの、進退(しんたい)きわまった大正6年の12月、思わぬところから“救いの神”はやってきた。当時、扇風機(せんぷうき)の碍盤(※1)は陶器製(とうきせい)で壊(こわ)れやすかった。そこで、扇風機の大手メーカー、川北電気が練物でつくってみようと練物を手がけるところをさがしていたのである。まずは見本注文であったが、試作品は好評(こうひょう)で、年内1000枚(まい)の注文を受けた。それを10日間で完納(かんのう)した幸之助は80円の利益(りえき)を手にし、年明けにはさらに2000枚の追加注文を受けた。

独立(どくりつ)から半年。幸之助はこうして事業での最初の試練を脱(だっ)したのである。碍盤の仕事が軌道(きどう)に乗るや、念願の電気器具製造(でんききぐせいぞう)・販売(はんばい)に本格的(ほんかくてき)に着手するため、大正7年3月7日、松下幸之助は大阪(おおさか)・大開町に「松下電気器具製作所(まつしたでんききぐせいさくしょ)」を創業(そうぎょう)した。
 
※1 碍盤(がいばん):絶縁体(ぜつえんたい)で電気を通さない板