-パナソニックセンター東京ショウケース- History

1918年 1920年 改良アタッチメントプラグ / 二灯用クラスター

工夫改良で、業界のヒット商品に

1918年(大正7年)当時、日本住宅にはコンセントがなく、電源は電灯ソケットから取っていた。夜は電灯ソケットを使い電気をともすため、他の電化製品を同時に使うことは難しかった。「アタッチメントプラグ」は電化製品のコードを電灯ソケットにつなぐための接続器具で、創業者(当時23歳)は使用済み電球の口金を再利用するなどのコストダウンを実現し、従来製品に比べて品質が良く価格も3~5割ほど安い「アタッチメントプラグ」を発売し、好評を得た。それが進化した「2灯用クラスタ」は、ひとつの電灯ソケットから2系統の電源をとることができるアイデア商品で、部屋のあかりをつけたまま電気アイロンやこたつが使える便利さで評判となった。これら2つの配線器具により、当社は成長に向けての地盤を固めた。

■改良アタッチメントプラグ(写真左)※1918年
まだ壁にコンセントがなかった時代、一家の電源は天井からぶら下がる電灯用のソケットであった。この製品はそこから電気を取るための器具である。松下幸之助が考案したこのプラグは、品質に優れ、しかも低価格。モダンな形状も手伝い、需要をのばした。松下電気器具製作所として産声を上げたパナソニックの創業の製品である。

■二灯用クラスター(写真右)※1920年
1つの電灯線から電気を2系統とることのできる配線器具。「二股ソケット」とも呼ばれ、「亀の子たわし」「地下足袋」とならぶ「大正時代の三大発明」のひとつといわれた。改良アタッチメントプラグと同じく、これも既存の製品の改良と思われる。

■松下幸之助の想い
便利で品質の良い配線器具をつくれば、一般の家庭にはいくらでも需要があると確信し、夜遅くまで配線器具の考案に没頭した。

1931年 3球1号型ラジオ「当選号」 R-31

松下を一躍有名にした故障しないラジオ

1925年(大正14年)に開始されたラジオ放送は、不況期にもかかわらず急速に普及し始め、所有世帯は昭和5年に早くも70万に及んでいた。しかし、当時のラジオは鉱石式や電池式から交流電源方式に切り換えられたばかりで、機能的に完全なものが少なく、リスナーは故障に悩まされていた。創業者もたまたま聞きたい放送がラジオの故障で聞けなかったことに憤りを感じ、「故障の起こらないラジオ」をつくろうと決意した。

1930年(昭和5年)8月、あるラジオメーカーと提携して、子会社・国道電機を設立し、ラジオの生産販売を開始した。ところが、故障返品の続出である。ラジオの専門店でしか扱えない製品なのである。創業者は「専門店だけでなく、広く一般の電器店が扱えるラジオをつくってこそ意味がある」と考え、(1931年)昭和6年3月、思い切って国道電機を松下の直営にし、研究部の中尾哲二郎氏に改めて故障の起こらないラジオをつくるように指示した。苦心の末、3ヵ月後に3球式ラジオが完成した。折しも募集中の東京放送局のラジオセットコンクールに応募したところ、これが1等に当選、松下は一躍ラジオ業界にその名を知られるに至った。

1932年(昭和7年)には、スピーカーの自社生産をスタートとして、部品から完成品までのラジオの一貫生産に乗り出した。価格設定にもこだわり「自分たちにも買える値段」をコンセプトに広く一般に普及させた。

■松下幸之助の想い
この時、創業者は、当時のラジオ開発に欠かせない特許を買い取り、無償で 公開。性能が良いラジオをより多くの人々に使ってほしいという想いで、ラジオ業界全体の発展に大きな貢献を果たした。当社は戦時中もラジオの生産を続け、終戦後は急伸する民間需要に応えるため、生産を拡大していった。

1951年 丸型攪拌式電気洗濯機 MW-101

主婦を家事から解放する「洗濯機1号機」

創業者がアメリカを視察したのち「主婦を家事の重労働から解放する重要な製品」として洗濯機の商品化を指示し、開発がスタート。この1号機(攪拌式)の普及はわずかに留まったが、本格的な家電製品のトップランナーとして注目を集めた。

限りなく優良品を世の中に そして豊かな電化生活を人々に。 当社は、「家庭電化による生活文化の向上」をモットーに、1951 年の攪拌式洗濯機を皮切りに、設備を拡充し、最新の技術を導入して新しい家庭電化製品の量産に尽力していた。その一方で、創業者が力を注いだのが、展示会や宣伝広告等を通じての家庭電化の普及啓発であった。1953 年1 月には、「生活を豊かに楽しくする家庭電化!」と銘打ち、当社の家庭電化製品で満ちあふれた家庭の様子を描いた広告を朝日新聞に掲載している。1952 年に白黒テレビを商品化したばかりで、冷蔵庫もまだ発売していない状況の中でのこの広告は、「当社の電化製品で人々の生活を便利で豊かなものにしたい」との創業者の強い思いを表している。

■アメリア訪問で感じた婦人の活躍ぶり
創業者がアメリカを訪問したとき感じたことが、当時の社内報に記されている。女性の社会進出が珍しかった当時の日本に生きる創業者はその様子に刺激をうけた。

「R社のSさんの自宅に招かれましたが、自動車の運転は夫人で、何事につけ婦人がよく働いています。じっくりみると婦人の活動が非常に目につきます。日本でも台所を根本的に改造して婦人に活動の時間を与えなければならぬと思います。R社で非常にいい電気冷蔵庫を売り出していますが、Sさんのお宅でもこれを使っておられました。松下電器でも、婦人生活の改善という見地から、こういった方面をよく研究しなければならぬと思います」

■時代のニーズを先取りした商品づくり
神武景気の好況を一つの契機に、爆発的な家庭電化ブームが起こり、新しい電化製品が次々と登場してきた。1956年ごろには白黒テレビ、洗濯機、冷蔵庫は、「三種の神器」と呼ばれて人々のあこがれの的であった。家庭電化時代の到来をいち早く予測したパナソニックは、ラジオ、蛍光灯に続く本格的な電化製品として、1951年、洗濯機の生産販売を開始。発売当初は価格も高く、台数も出なかったが、量産によって価格を下げ、1955年には月産5000台を越えた。洗濯機の登場は、女性の家事労働からの解放、地位の向上を象徴するものとして、世の中に明るい話題を提供した。

1952年 白黒テレビ 17K-531

全ての人に映像を「テレビ1号機」

テレビ放送がスタートする前年に発売されたナショナルテレビ1号機。価格は29万円で、当時の高卒国家公務員の初任給の約54倍であった。しかし、その後の技術の進化、量産化の努力により、テレビは急速に各家庭に普及していく。1953年のテレビ本放送開始に先立ち、前年に発売されたテレビ。その強力な情報伝達力によって、国民の生活と文化に大きな影響を与えることになった。とくに1959年の皇太子殿下と美智子さまのご成婚はテレビブームに拍車をかけた。価格面では「インチ1万円」を掛け声に改善を重ねていった。1955年には、それまで海外他社からの輸入に頼っていたブラウン管の製造を松下電子工業で開始。自社での一貫したテレビ生産体制を構築した。

1954年 ダブルコーン Hi-Fiスピーカー 8PーW1

良音を追求するテクニクスの原点

オーディオブランド「Technics」の原点ともいえる製品。当時では珍しいダブルコーン方式を採用。
丸いイコライザー球の形から「ゲンコツ」の愛称で親しまれ、その音の良さで20年以上現役であり続けた「名機」である。「パナソニック」というブランド名は、1955年に輸出用スピーカーに最初に使用された。Pan(汎、あまねく)とSonic(音)という言葉を組み合わせ、「当社が創りだす音をあまねく世界中へ」 という想いが込められている。

1963年 ハイトリプルタップ

半世紀以上変わらないグッドデザイン

家電製品が増え続ける時代のニーズをそのままカタチにしたようなシンプルなデザインは、半世紀を経た現在もほぼ当時のデザインのまま販売されている。2穴の「ハイ三角タップ」と共に累計生産1億個を超える超ロングセラー商品となった。 1964年には、「ハイトリプルタップ」がグッドデザイン商品に選定された。

1965年 掃除機 MC-1000C

プラスチック時代の到来を告げた掃除機

日本初のプラスチックボデイの掃除機。板金の単純な円筒形ばかりだった掃除機のデザインを流麗な局面に変え、軽量化も実現した。固定式だった前輪を首振り式にして使い勝手を大幅に改善。この1機種のみで生産累計63万台を記録した。日本の掃除機で初めてグッドデザイン商品に選定された

■生活者のための工夫
従来の掃除機の車輪は固定式で曲がろうとするとすぐに転倒したが、MC-1000Cは前輪を左右に振れるようにして掃除する人の後を掃除機が自在について回るようにし、掃除する人のストレスを大幅に軽減した。

1965年 高性能小型スピーカー 「Technics1」

世界を唸らせたテクニクスブランド1号

記念すべきテクニクスブランドの第1号。その小さなキャビネットから生まれるサイズを超えた低音が、多くの評論家を驚かせた。当初、シリーズ名であった「Technics」は、後にハイファイオーディオのブランドになってゆく。

1965年から2010年にかけて、ハイファイオーディオ専用ブランドとして展開された「Technics」。ブランド名の由来は、原音を忠実に再生する「テクノロジー」に基づく造語で、ハイクオリティな音づくりにこだわる当社の思いを象徴したものである。

1965年に発売された密閉型2ウェイ2ユニットスピーカーシステム「Technics 1」に続き、1970年には、世界初のダイレクト・ドライブ式ターンテーブル「SP-10」を発売。その後、コントロールアンプ、パワーアンプやCDプレーヤーなど多彩な高級音響製品を市場投入し、世界中のオーディオファンの皆様方から高い支持を得る。

その後、2008年のパナソニックへの社名変更・ブランド統一により、オーディオ製品についても「Panasonic」ブランドに統一し、「Technics」は、同年に発売したクォーツシンセサイザーダイレクト・ドライブプレーヤー「SL-1200MK6」の生産終了(2010年)をもって終止符を打つ。一方で、当社の音響技術者は究極の音づくりへの情熱とこだわりを絶やすことなく継承し、弛まぬ技術開発を重ね続けた。

近年、音楽の楽しみ方が多様化するとともに、CD規格を超えるハイレゾ音源が充実するなど、音楽とともにあるライフスタイルが拡大する中で、よりリアリティのある高品位な音の表現が求められている。こうした中、当社は、2014年12月より、来年誕生50年を迎える「Technics」ブランドを復活させた。伝統の「音響テクノロジー」と、先進の「デジタル技術」の融合による粋の結晶で、一層の進化を遂げた新生「Technics」を、世界の音楽ファン、オーディオファンの皆様にご提案し、演奏者の真の音楽表現をその息遣いと共に届け、かつてない「驚き」と「感動」を今日もお届けしつづけている。

1967年 ラジオ付カセットテープレコーダー RQ-231

ラジオを文化に

ラジオ放送が録音できる、日本初のラジカセが誕生。同じ年にスタートした「オールナイトニッポン」(東京)、「ヤングタウン」(大阪)といったラジオ深夜放送の人気とともに、若者の必須アイテムになった。

市場ではカセットが普及するにしたがって、さらに便利さを追求したラジオ付やHi-Fi化をめざしたデッキなどの需要が高まっていた。当社はこのようなニーズに対応して業界初のFM/AMラジオ付のRQ-231を発表。特にラジオ付カセットは、1モデルで輸出10万台販売に成功し、今日のラジカセブームの試金石となった。

1970年 D.D.ターンテーブル Technics SP-10

世界の放送局で採用されたD.D.ターンテーブル

ベルトドライブ方式のレコードプレーヤーが主流だった時代に、モーターでターンテーブルを直接駆動するダイレクトドライブ(D.D.)方式を世界で初めて開発。従来のベルトドライブ方式に起因する振動や回転ムラを払拭し、民生機で放送局納入。他機器に多大な影響を与えた。1975年発売の2号機は英国BBCをはじめ、世界25カ国で放送局用として採用された。

1979年 レコードプレーヤー Technics SL-1200MK2

世界初のDJ用レコードプレーヤー

世界で初めて「ディスコやクラブにおけるDJユース」というコンセプトで開発されたレコードプレーヤー。つまみ型からフェーダー型に変えたピッチ調整、安定した回転に定評があったダイレクトドライブプレーヤー・シリーズの原器。DJのパフォーマンスを徹底観察して改良し、「楽器」へと進化させた。40年近く生産され続けた本製品は、DJ文化を創生に大きく貢献した。

1984年 小型ハイパワースピーカ システムRAMSA WS-A200

コンサート音響の原点

RAMSAは、Research of Advanced Music Sound and Acousticの略で「先進的なミュージックサウンドと音響機器の探求」を意味している。1979年、パナソニックは日本企業として初めて劇場やコンサートホール向けの音響設備を提供するプロジェクトを始めた。その後、デジタル化や大規模システムへの対応、グローバル展開、大型のラインアレイスピーカーを核としたオリンピック・パラリンピックの設備音響への挑戦を経て、2019年、この音響機器プラン度は40周年を迎えた。

■事例:極限の環境下でも信頼に応える「RAMSA」ブランド

「RAMSA」が誕生し、初めて納入されたのは1979年8月に神奈川県・江の島で開催された野外ロック・フェス。過酷な炎天下、かつ大規模な会場で高い評価を受けたことで、ブランドの信頼を獲得した。以降、日本の公共ホールや大劇場などへの納入実績を積み上げている。

1985年 VHS一体型ビデオカメラ 「マックロードムービー」 NV-M1

録画と再生を一台で実現

それまで別々であったビデオ撮影時のカメラとデッキ(録画機)を、VHSとして世界で初めて一体化し、 「マックロードムービー」と名づけた。最長160分の録画再生を実現。家庭でのビデオ撮影普及に弾みをつけた。

1990年には世界初の電子手ブレ補正機能で片手撮影を可能にした「ブレンビー」をリリース。手ブレを抑えたきれいな映像録画文化のパイオニアとなった。

1996年 ノートパソコン 「レッツノート」 AL-N1

モバイルPCの幕開け

発売と同時に人気が集中した「レッツノート」。その軽さと高性能で売り切れ店が続出する人気モデルとなった。 当時、ノートパソコンといえば、軽くても2kg、画面サイズもVGA(640×480ドット)のSTN液晶が普通。その中で、B5サイズで1.5kgを切る重量、当時としては進んだSVGA(800×600ドット)のTFT液晶、バッテリーも2本搭載が可能という性能は画期的であった。 長時間の使用にも十分耐える設計で、「レッツノート」はビジネス用PCの定番の座を守り続けている。