1959年(昭和34年)

アメリカ松下電器を設立

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1965年当時のアメリカ松下電器のみなさん

世界を視野に仕事を進める

戦後の再建と発展の中で、多くの新製品を開発し、人々の豊かな家庭電化生活に貢献してきたパナソニックの次の目標は、世界的な企業に成長し、海外の人々の生活向上に貢献することであった。

輸出は、1954年の5億円が1958年には32億円にまで伸びていた。しかし社長はこの程度では不十分だとして、1959年に、「松下電器貿易の人たちはわが社にどんどん提案して、海外にふさわしい商品を作らす、松下電器貿易の熱心さには困る、という状態までにわが社の幹部を追い詰めてもらいたい」と奮起を促した。

そして独自の販売網として、1959年9月、従来のニューヨーク出張所を強化し、現地法人の販売会社「アメリカ松下電器」を設立。11月には製品だけでなく、技術、資本の輸出を含む海外活動を本格化するため、統括部門として国際本部を設置した。

こうした輸出体制の強化と松下電器貿易の努力に加えて、トランジスタラジオを筆頭に製品の優秀性が認められ、輸出は急速に伸び、1961年には130億円を突破した。輸出についても国内販売と同じように適正利潤を確保して行うことが基本方針であり、出血輸出であってはならないと強く戒められていた。

1964年にはこうした活動が認められて、輸出貢献企業として政府の認定を受け、1966年には輸出振興の功績で総理大臣表彰を受けた。