宮崎

昭和46年、宮崎に安全への道をひらく児童交通遊園を。

「この交通難はいよいよ地獄の様相を呈してくる。街は一体どうなるのであろう」――時は昭和34年、高度経済成長期の真っ只中、創業者松下幸之助は自動車で移動中、日に日に大きくなる交通問題を実感し、そう憂えていました。

総務省のデータによると、昭和35年当時、国内の保有自動車台数は約340万台。昭和30年から5年間で倍増し、さらに昭和40年には800万台をこえました。こうした自動車の急激な増加に対し信号や歩道の整備、交通教育は追いつかず事故は急増。事故死者が国内で年間一万人を突破して、『交通戦争』という言葉も生まれました。

松下幸之助は交通戦争への危惧と早急な対策の必要性を、講演や著作などで訴え続けました。そして、昭和43年には児童の交通等災害防止対策として、総額50億円の寄贈を発表。創業50周年記念の一環として、毎年3億円以上を15年間にわたり全国都道府県と政令指定都市に分割し贈呈するものでした。ここ宮崎では昭和46年『児童交通遊園』の建設に活用。園内には本物の街並さながら、車道や歩道があり、標識や信号機、踏切も設置されました。現在も、子どもたちは足漕ぎカートや自転車を利用して、楽しみながら正しい交通の知識・道徳を学習。長年のこうした取り組みのもと、今日、日本の交通事故による悲しい被害は半減されました。

大正7年の創業以来、私たちがここまで歩んでこられたことは、宮崎のみなさまをはじめとする、たくさんの方々のご愛顧とご信頼の賜物と心より感謝申し上げます。これからも変わらぬご支援を賜りますよう、よろしくお願い申し上げます。

おかげさまで、パナソニックは創業100周年を迎えました。