熱海での会議が終わった約3週間後、幸之助は自ら営業本部長代行(えいぎょうほんぶちょうだいこう)となった。"会長の第一線返り咲(ざ)き" に世間は一様に驚(おどろ)いたが、「非常時(ひじょうじ)には非常時のやり方がある」と幸之助は意に介(かい)さなかった。病気療養中(びょうきりょうようちゅう)の営業本部長の机の横に自分の机を置き、毎日のように出社した。幸之助が打ち出した改革構想(かいかくこうぞう)は「一地域(ちいき)一販社(はんしゃ)(※1)制(せい)」「事業部、販社間(はんしゃかん)の直取引」「新月販制度(しんげっぱんせいど)(※2)」の三つ。大改革(だいかいかく)だけに利害の対立が各方面で起こったが、幸之助は先頭に立って、理解(りかい)を得るため奔走(ほんそう)(※3)する日々(ひび)が続いた。

「松下さんがそこまで言うなら……」
「待ってください。そんなんではまだ十分とはいえまへん」
「やってみようというのに何が不服なんです?」
「心からの賛同(さんどう)(※4)をいただくまで、説明を続けさせてもらいます」

言うは易(やす)く行うは難(かた)し----。この改革(かいかく)は、関係者全員(かんけいしゃぜんいん)の強い意思統一(いしとういつ)のもとでなければなし得ない。幸之助はそう思い、販売会社(はんばいがいしゃ)や代理店、販売店(はんばいてん)での説明でも満場一致(まんじょういっち)(※5)の拍手で積極的な賛同を全員から得るまでやめなかった。

文字通りの "ヒザ詰(づ)め" での懇談(こんだん)(※6)も重ねた。やがて、新販売制度(しんはんばいせいど)は軌道(きどう)に乗り、苦しかった販売会社・代理店の経営(けいえい)も回復(かいふく)し始めた。

昭和40年、「勲二等旭日重光章(くんにとうきょくじつじゅうこうしょう)」を受章した幸之助に、全国の販売会社・代理店から「天馬往空之像(てんばおうくうのぞう)」が贈(おく)られた。「共存共栄(きょうぞんきょうえい)」の信念で改革を断行(だんこう)した幸之助への感謝(かんしゃ)、そして心からの信頼(しんらい)の表れであった。

※1 立志伝(りっしでん):こころざしを立てて努力し、成功した人の伝記
※2 同道(どうどう):いっしょに行くこと