1961年(昭和36年)

海外生産を積極的に推進

その国の人々に歓迎される工場を

「世界的な視野に立って考え、全世界を対象に仕事を進める」方針により、輸出活動とともに、1961年から海外諸国への技術援助、海外工場の建設を積極的に始めた。

この年、パキスタン、南ベトナム(当時)、ウルグァイの現地企業にラジオ組み立ての技術援助を行った。また戦後初の海外生産会社として、タイに「ナショナル・タイ」を設立、技術援助を行って、乾電池の現地生産を開始した。

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ナショナル・タイの工場外観

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ナショナル・タイの社員のみなさん

翌年には台湾でラジオその他の電化製品の現地生産を行うため、「台湾松下電器」を設立。その後、1967年までにメキシコ、プエルトリコ、コスタリカ、ペルー、タンザニア、マラヤ連邦(当時)、フィリピン、オーストラリアなどにも現地会社を設立し、乾電池その他の電化製品の生産を開始した。

これらの会社はすべてパナソニックの経営理念に基づき、その国の繁栄に貢献することを基本方針に運営され、注目を集めた。

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台湾松下電器の工場の外観

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台湾松下電器の社員のみなさん

松下幸之助会長、松下正治社長体制

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パナソニックを紹介したタイム誌

新しい飛躍の時代へ

1961年1月、恒例の経営方針を発表したのち、松下幸之助社長は「昨年は皆さんのご協力をえて、5ヵ年計画も無事達成することができました。また私も満65歳になりました。いろいろ考えましたが、この際、社長を退き、会長として後方から経営を見守っていきたいと思います。これを機に皆さんは新たな構想のもとに活動していってください」と述べた。

あまりにも突然の発表だったので、出席者は大きな驚きと深い感銘を受けた。そしてこれを一つの転機として、わが社は松下正治社長のもと、全員が心を新たにして使命達成を誓い、次の飛躍の時代に入っていくのである。

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就任後、テレビ事業部を訪れた松下正治社長

高度成長をとげた日本への関心が高まるなかで、1958年ごろから、タイム、ライフ、ニューヨークタイムズなど、世界的な新聞・雑誌に紹介される機会が多くなった。

1962年にはタイム誌で、表紙と5ページにわたって松下会長の経歴、思想および松下電器の飛躍的な発展の姿とその経営理念が詳しく紹介された。